バスコ・ダ・ガマ艦隊の天測器、レーザー3D技術で判明

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2014年に中東オマーン沖で発見された沈没船の残骸のなかに、500年前の銅製の小さな円盤が見つかった。これは「アストロラーベ」と呼ばれる航海用の道具ではないかと考古学者らが考え、3Dスキャンにかけたところ、表面にうっすらと目盛線が刻まれていることが新たに判明した。円盤はやはりアストロラーベだったことが確認された。これまでに見つかっている大航海時代のものとしては、最古のものと考えられる。円盤が見つかったのはエスメラルダ号と呼ばれる沈没船で、ヨーロッパからインドへの海路をひらいたポルトガルの探検家バスコ・ダ・ガマが、1502~1503年の航海で率いた船団に属していた。

「位が高い」刻印

2014年、ブルー・ウォーター・リカバリーズ社の海洋科学者デビッド・L・ミアーンズ氏率いる発掘チームは、海底でほかの多くの遺物とともに砂に埋もれていたこのアストロラーベを引き揚げた。それから2年後の2016年に、海洋考古学誌「International Journal of Nautical Archaeology」に掲載された中間報告書で、チームは円盤が船のナビゲーションに使われていたという説を提唱していた。円盤の上半分には、ポルトガル王室の紋章が、下半分には古代の天球儀が刻まれている。ミアーンズ氏によれば、紋章はポルトガル国王マヌエル1世の個人のものだという。これらの刻印により、円盤がエスメラルダ号の物品のなかでも「位が高い」ことを示していた。また、刻印から円盤がナビゲーションに使われていたと想像できたが、はっきりしたことが言えるまでにはもう少し証拠が必要だった。そこで、ミアーンズ氏は英ウォリック大学のマーク・ウィリアムズ教授に協力を依頼した。氏はエンジニアリング・チームを率いてオマーンに飛び、500年前の円盤を詳しく調査。1秒あたり8万測定点を計測するレーザースキャナーを駆使して、解像度の高い3D画像を作ることに成功した。すると、画像には肉眼では見えなかったものが写し出されていた。中心の穴から18本の線が放射線状に、5度間隔で伸びていたのだ。

「線はとても細く、表面は損傷しているため、肉眼ではほとんど見えません」と、ウィリアムズ氏は説明する。「3Dデータの解像度が高いおかげで、線が入っていることがわかりました」アストロラーベの線は、角度を測るために用いられる。人間の文明のなかでも最も高度な古代道具のひとつで、現代のような技術が発達する以前は広く普及したと考えられている。古代の天文学者は、アストロラーベを水平線に対して垂直にすることで、天体の高度を測定したり、時間や位置を計算できた。初期の航海者が使っていたアストロラーベは、しばしば航海用アストロラーベと呼ばれる。上部に損傷した突起部分が残っていることから、水平線に垂直になるよう吊るされて使われていたとされる。そして、正午に太陽の高度を測って太陽の角度を測定し、船の緯度を割り出した。


【動画】航海者バスコ・ダ・ガマ艦隊エスメラルダ号発見時の様子。航海用アストロラーベを見つけた状況は16秒前後から。

略奪を繰り返すうちに嵐に遭遇
15世紀から17世紀、ヨーロッパが世界の海へ進出した時代、国々は競って新たな海路を切り拓こうと躍起になっていた。バスコ・ダ・ガマは、1502~1503年に第2回目のインド航海に出た際、エスメラルダ号を含む20隻の船を率いた。15世紀に、ヨーロッパではインドの香辛料への需要が高まっていたが、インドまでの陸路はほとんどがアラブ諸国によって支配されていた。ガマは、海からアフリカ南端を回ってインドへ到達するルートを最初に切り拓いた人物である。言い伝えと船の残骸に見られる損傷から、船は嵐に遭い、岩に衝突して沈没したと思われる。船の残骸が最初に発見されたのは1998年だが、ミアーンズ氏がようやく船の財宝を引き揚げることができたのは、2013年のことだった。このプロジェクトは、一部ナショナル ジオグラフィック協会の支援を受けていた。「初期のアストロラーベについてわかっていることは、それほど多くはありません。その点、この円盤は大変貴重なものです」と、米テキサスA&M大学の海洋考古学者ルイス・フィリペ・ビエラ・デ・カストロ氏は言う。これが発見される以前、最古の航海用アストロラーベと言われていたのは、米テキサス州南部沖で見つかった1554年のスペインの沈没船のものだった。「また、ソドレ兄弟の失われた船のひとつである可能性が高いという点も重要です。おそらく、インド洋に入った最初のヨーロッパの軍艦だったと思われます」と、カストロ氏。ソドレ兄弟の1人であるビセンテ・ソドレは、ガマの母方のおじで、エスメラルダ号の船長だった。彼のイニシャルが彫られた大砲の弾が残骸の中で見つかっている。1503年、インドにいたガマがリスボンへ戻る際に、5隻の小隊を率いるおじに対して、インド沿岸にあるポルトガルの工場を護衛するよう依頼したが、ビセンテとブラスの兄弟はそれを無視。アラビア半島とアフリカの間にあるアデン湾でアラブの船を襲い、略奪を繰り返していた。そして、嵐に遭って船は沈没し、ソドレ兄弟も船と運命を共にしたのである。15世紀から17世紀、ヨーロッパが世界の海へ進出した時代、国々は競って新たな海路を切り拓こうと躍起になっていた。バスコ・ダ・ガマは、1502~1503年に第2回目のインド航海に出た際、エスメラルダ号を含む20隻の船を率いた。15世紀に、ヨーロッパではインドの香辛料への需要が高まっていたが、インドまでの陸路はほとんどがアラブ諸国によって支配されていた。ガマは、海からアフリカ南端を回ってインドへ到達するルートを最初に切り拓いた人物である。言い伝えと船の残骸に見られる損傷から、船は嵐に遭い、岩に衝突して沈没したと思われる。船の残骸が最初に発見されたのは1998年だが、ミアーンズ氏がようやく船の財宝を引き揚げることができたのは、2013年のことだった。このプロジェクトは、一部ナショナル ジオグラフィック協会の支援を受けていた。「初期のアストロラーベについてわかっていることは、それほど多くはありません。その点、この円盤は大変貴重なものです」と、米テキサスA&M大学の海洋考古学者ルイス・フィリペ・ビエラ・デ・カストロ氏は言う。これが発見される以前、最古の航海用アストロラーベと言われていたのは、米テキサス州南部沖で見つかった1554年のスペインの沈没船のものだった。「また、ソドレ兄弟の失われた船のひとつである可能性が高いという点も重要です。おそらく、インド洋に入った最初のヨーロッパの軍艦だったと思われます」と、カストロ氏。ソドレ兄弟の1人であるビセンテ・ソドレは、ガマの母方のおじで、エスメラルダ号の船長だった。彼のイニシャルが彫られた大砲の弾が残骸の中で見つかっている。1503年、インドにいたガマがリスボンへ戻る際に、5隻の小隊を率いるおじに対して、インド沿岸にあるポルトガルの工場を護衛するよう依頼したが、ビセンテとブラスの兄弟はそれを無視。アラビア半島とアフリカの間にあるアデン湾でアラブの船を襲い、略奪を繰り返していた。そして、嵐に遭って船は沈没し、ソドレ兄弟も船と運命を共にしたのである。

出典:http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/102600415/?P=1

「執筆者:株式会社光響 緒方」