◆発表のポイント
- 本研究は、中国・厦門大学附属病院との国際共同研究により実施されました。
- テラヘルツ波ケミカル顕微鏡(TCM)を病理研究のツールとして応用し、従来は主にテラヘルツ・センサー分野で活躍していた TCM の新たな可能性を示しました。
- 脂肪組織における食後脂質の動態(1)と貪食(2)の仕組みについて、分子・細胞・組織レベルで多面的に解明しました。
岡山大学学術研究院ヘルスシステム統合科学学域の王璡(WANG Jin)准教授は、医療機器医用材料部門先端医用電子工学研究室(AEMT)において、中国・厦門大学附属病院との共同研究により、脂肪組織マクロファージ(3)(ATM)による食後脂質処理の新たな分子メカニズムを明らかにしました。
本研究では、天然由来の小分子化合物「エスクレチン(4)」が、転写因子 C/EBPβ(5)に直接結合し、スカベンジャー受容体CD36(6)の発現を高めることで、ATM による食後脂質の貪食作用を促進することを発見しました。これにより、HDL コレステロール(7)生成が促進され、胆汁酸排泄経路が活性化されることで、食後の血中脂質クリアランスが加速されることが示されました。
本研究の大きな特徴は、分子レベルでの相互作用の可視化に、テラヘルツ波ケミカル顕微鏡(TCM)を活用した点です。これまで TCM はテラヘルツ・センサー分野での応用が主でしたが、今回は病理研究ツールとしての新たな有効性を示しました。TCMにより、エスクレチンとC/EBPβの直接結合を非侵襲的に観察することに成功し、従来技術では捉えきれなかった薬剤–転写因子間の相互作用を明確に可視化しました。
本成果は、「地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)」の一環として得られたものであり、科学雑誌『Theranostics』(Q1、インパクトファクター12.4)に 2025年4月28日に掲載されました。
◆研究者からのひとこと
■発表内容
<現状>
脂肪組織は、食事由来の過剰な脂質を一時的に取り込み、血中脂質の急激な上昇を防ぐことで、食後脂質恒常性(postprandial lipid homeostasis)を維持する重要な「代謝バッファ」として機能します。特に、内臓脂肪組織(eWAT(9))は皮下脂肪と比較して代謝活性が高く、脂質の処理において中心的役割を果たします。
この脂肪組織内に存在する脂肪組織マクロファージ(ATM)は、食後に血中を循環するキロミクロンやそのレムナントを取り込み、これを処理してHDLコレステロールの生成や胆汁酸合成へと導くことで、コレステロールの逆転送(reverse cholesterol transport, RCT)を促進します。この過程は、動脈硬化リスクの抑制にもつながる極めて重要な生理機構です。
しかしながら、ATMがどのようにして食後の脂質を認識し、貪食し、その後の代謝経路へとつなげているのかといった分子レベルでのメカニズムはこれまで十分に解明されていませんでした。特に、どの受容体や転写因子がこのプロセスを制御しているのか、また、それを標的とした新規治療戦略の可能性は、まだ明らかになっていません。
近年、スカベンジャー受容体CD36が、ATMによる食後脂質の取り込みとHDL生成に関与することが報告されていますが、その発現や活性の調節機構については不明な点が多く残されています。また、現在の脂質代謝に対する治療法(スタチンなど)は主に肝臓を標的とするものであり、脂肪組織や ATM の機能を直接制御するアプローチは限られていました。したがって、脂肪組織を中心とした新規の脂質代謝制御機構の解明は、医療・栄養学的にも喫緊の課題とされています。
<研究成果の内容>
本研究では、天然由来のクマリン誘導体エスクレチン(esculetin)が、脂肪組織マクロファージ(ATM)における貪食活性を著しく高めることで、食後の脂質クリアランスを加速する新たな作用機構を明らかにしました。
研究チームは、マウスに高脂肪食を3日間与えることで食後高脂血症を誘導し、そこにエスクレチンを経口投与したところ、血中の HDL コレステロール濃度が有意に上昇し、胆汁酸合成および排出が促進されました。特に注目すべきは、エスクレチンが脂肪組織のCD36陽性マクロファージ(CD36+ ATM)の割合とその貪食活性を高めることで、食事由来の脂質を効率的に処理する経路を強化することが確認された点です。この効果は、脂肪組織の除去やCD36の阻害剤(SSO)によって失われたことから、脂肪組織ATMおよびCD36経路が中心的な役割を担っていることが証明されました。
また、テラヘルツ波ケミカル顕微鏡(TCM)を用いた分子間相互作用の可視化実験により、エスクレチンが転写因子C/EBPβと直接結合し、その転写活性を増強することが初めて明らかになりました。さらに、ATAC-seq(10)および ChIP-seq(11)解析により、エスクレチンはC/EBPβ 依存的にCD36遺伝子領域のエピゲノム状態を開放化させ、転写を促進するメカニズムが解明されました。
この一連の実験結果から、エスクレチンは C/EBPβ–CD36 経路を介して脂肪組織マクロファージの貪食機能を強化することで、食後脂質の効率的な処理とクリアランスを促進することが示されました。また、本研究は、これまでテラヘルツ・センサー応用が主であったテラヘルツ波ケミカル顕微鏡(TCM)を病理研究ツールとして活用した初の事例でもあり、薬物-転写因子-遺伝子発現調節の動的関係を非侵襲的かつ定量的に可視化できることを実証しました。
<社会的な意義>
今回の研究は、脂肪組織マクロファージが単なる免疫細胞ではなく、「食後脂質の処理工場」として機能していることを分子レベルで示した画期的な成果です。特に、テラヘルツ波ケミカル顕微鏡という新技術を病理学的研究に活用した点が特筆されます。これにより、従来のテラヘルツ・センサー応用とは異なり、薬剤–転写因子–標的遺伝子の連関を非侵襲的に解明する新たなツールとしての可能性が広がりました。
エスクレチンは天然由来の低分子化合物であり、今後の脂質異常症や動脈硬化の予防・治療に向けた機能性食品や医薬品開発にもつながることが期待されます。
■論文情報
論 文 名:
A small molecule esculetin accelerates postprandial lipid clearance involving activation of C/EBPβ and CD36-mediated phagocytosis by adipose tissue macrophages
掲 載 紙:
Theranostics 2025, Vol. 15, Issue 12, pp. 5910–5930
著 者:
Gang Wang, Zhaokai Li, Wei Ni, Heng Ye, Yang Liu, Linjian Chen, Lin Wang, Changjiang Liu, Jingyu Chen, Xuchao Wang, Xue Ding, Longshan Zhao, Xiaofeng Ge, Yan Wang, Yuanchao Ye, Toshihiko Kiwa, Linghe Zang, Jin Wang*, Cuilian Dai*, Binbin Liu*
D O I:
https://doi.org/10.7150/thno.110207
■補足・用語説明
(1)動態
食後に腸管から吸収された脂質(キロミクロンなど)は血中を循環し、脂肪組織や肝臓に取り込まれます。この過程には脂質の吸収、輸送、代謝、貯蔵が含まれ、これらの動態に異常が生じると、動脈硬化のリスクが高まります。
(2)貪食(ファゴサイトーシス)
マクロファージなどの免疫細胞は、酸化 LDL などの脂質粒子や細胞残骸を取り込みます。この現象は CD36 などのスカベンジャー受容体を介して行われ、脂質代謝や生体の恒常性維持において重要な役割を果たします。
(3) 脂肪組織マクロファージ(ATM:Adipose Tissue Macrophage)
脂肪組織内に常在する免疫細胞で、食後に血中を循環する脂質(キロミクロンやそのレムナント)を取り込み、処理することで血中脂質の恒常性維持に関与します。特にCD36などの受容体を介した貪食機能が重要です。
(4)エスクレチン(Esculetin)
クマリン誘導体に分類される天然化合物で、セイヨウトチノキ(Aesculus turbinata)やトウネズミモチ(Cortex Fraxinis)などの植物に含まれます。抗炎症作用や脂質代謝改善作用が報告されており、近年は機能性食品素材や医薬品候補として注目されています。
(5) C/EBPβ(CCAAT/enhancer-binding protein β)
脂質代謝や免疫制御に関与する転写因子。脂肪組織マクロファージでは CD36 などの脂質関連遺伝子の発現を調節し、食後脂質のクリアランス機構において重要な役割を担います。
(6) CD36(クラス B スカベンジャー受容体)
脂質や酸化 LDL などの取り込みを仲介する細胞膜上の受容体。脂肪組織や肝臓、筋肉、マクロファージなどさまざまな細胞に発現し、脂質代謝および免疫応答に深く関わっています。
(7) HDL コレステロール(High-Density Lipoprotein)
「善玉コレステロール」とも呼ばれ、末梢組織から余分なコレステロールを肝臓へと運搬する働きを持ちます。HDL 濃度の上昇は動脈硬化リスクの低減と関連します。
(8)テラヘルツ波ケミカル顕微鏡:
半導体プレート(センシングプレート)を用いて表面の電気化学ポテンシャル分布を可視化する装置です。
(9)eWAT(epididymal White Adipose Tissue)
マウスの内臓脂肪の代表的なモデル部位。実験研究において、脂質代謝やマクロファージ機能を調べるためによく用いられます。
(10) ATAC-seq(Assay for Transposase-Accessible Chromatin using sequencing)
クロマチン(DNAとタンパク質の複合体)の開放性を測定する次世代シーケンス手法。転写因子のアクセス可能領域の可視化により、エピゲノム状態の変化を解析できます。
(11) ChIP-seq(Chromatin Immunoprecipitation Sequencing)
特定の転写因子が結合している DNA領域を同定する実験手法。C/EBPβ が CD36 遺伝子プロモーターに結合することを明らかにするために使用されました。
<お問い合わせ>
岡山大学学術研究院 ヘルスシステム統合科学学域
准教授 王 璡
(電話番号)086-251-8129
出典:
https://www.okayama-u.ac.jp/up_load_files/press_r7/press20250526-1.pdf
ご参考:
(株)光響が提供する製品・サービス情報:
・テラヘルツ関連製品
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info@symphotony.com
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